Mag-log in落ち着いたカフェの空気の中で、楓と慎一はゆっくりと会話を続けていた。 夕暮れの光が窓から差し込み、テーブルの上に置かれたコーヒーカップの影を長く伸ばしている。「それで……外科に戻ろうと思ったんだね」 慎一がそう言いながら微笑むと、楓は照れたように弱く頷いた。「うん。正直、不安もあるけど……自分がどうして医者になったのか、もう一度思い出したいって思ったの」「楓らしいよ。逃げずに向き合おうとするところ、昔から変わらない」 慎一の言葉は柔らかく、しかし不思議と胸の奥をまっすぐに揺さぶった。「慎一……」「教授、つまり親父のことだけど――話してみる価値はあると思うよ。楓のことは今でも高く評価してる。むしろ、戻ってこなかったことを惜しんでたくらいだ」「本当に……?」「本当。あの人は厳しいけど、実力のある人間は必ず認める。楓の手術のセンスは他の誰よりも買ってたから」 慎一の言葉に、楓の胸の奥がじんわりと温かくなった。 自分の選んだ道、自分の能力――それらをもう一度信じてもいい気がした。「……なんだか心強いな。ありがとう、慎一」「礼なんていらないよ。楓がまた白衣を着て手術室に立つ姿、見たいと思ってたし」 その一言は、胸の奥の重たいものをそっと溶かしてくれた。「じゃあ、教授に相談してみようかな」「うん。連絡先、今でも変わってないし、俺から話しておくよ。きっと喜ぶ」「えっ……いいの?」「もちろん。楓のためなら、いくらでも」 昔と変わらないまっすぐな優しさ。 少し皮肉屋で、でも結局どこまでも思いやってくれる――慎一はそんな人だった。 楓がうっかり見とれていると、目が合った慎一が少し照れたように視線を逸らした。「……そんな顔で見られると困るよ」「え? どんな顔?」「昔から変わらないんだよ。人を信じ切るみたいな、まっすぐな眼で」「そ、そんなこと言われても……!」 楓は慌てて視線をそらし、頬を赤らめる。 慎一は小さく笑った。 こんなやり取りを、いつぶりにしているのだろう――と、ふいに胸が締め付けられる。 懐かしくて、少し切なくて、でもあたたかかった。「楓、これからどうするつもり?」 慎一の問いかけに、楓は真剣な顔で答える。「まずは、気になる病院をいくつかピックアップして、見学させてもらおうかなって。外科でも、どの領
翌日。 外科医に戻ると決めた楓は、朝から黙々と行動していた。 まずは体力を取り戻すためのトレーニング。 久しぶりのランニングは、肺が焼けるように苦しかったが、むしろその痛みが心地よかった。(ちゃんと戻るためには、まず身体) 汗を拭き取りながら、楓は呼吸を整える。 そのあとシャワーを浴び、軽い食事を摂り、午後は机に向かった。 散らかった医学書と、最新の外科論文。 医学雑誌を読み返し、マーカーで線を引きながら、専門知識を頭に叩き込む。 ――どこに戻るか。 ――どの領域をもう一度極めたいのか。 ページをめくる指は真剣そのもので、いつもの「外科医・楓」の顔に戻っていく。 夕方になり、ふと手が止まった。 昨日の真琴の言葉が、胸の奥で小さく再生される。『慎に相談してみたら?』 楓はゆっくりため息をつき、スマホを手に取った。 連絡先のアプリを開き、過去に消したはずの男友達の名前は確かにもう残っていない。 亮の嫉妬がひどく、楓は当時、泣く泣く全員の連絡先を消したのだ。 けれど――。「あ、あった」 一つだけ、奇妙な名前が残っていた。 『朝倉奈美』。 楓が勝手につけた“偽名”だ。 この番号の正体が慎一であることは、ばれないようにするための小さな抵抗だった。(……こんなの残したままだなんて、私も相当バカだったなぁ) けれど、そのバカさが今は少しだけ嬉しかった。 楓はスマホを握りしめ、深呼吸した。 慎一に連絡するのは2年ぶり。 彼は怒っているだろうか。 突然の連絡に戸惑うだろうか。(でも、もう一歩踏み出さないと) 画面に表示された番号をタップし、指が震える。 発信音が鳴り始めた瞬間、胸の鼓動が痛いほどに大きくなる。 ――プルルル。 ――プルルルル……。「……もしもし」 懐かしい、穏やかな声。 変わらない、少し低くて優しいトーン。 楓の胸がきゅ、と鳴った。「……慎一?」 一瞬の沈黙のあと、驚いたような声が返ってきた。「……楓? 本当に楓?」「うん……久しぶり」「久しぶりどころじゃないよ。二年近く音信不通だったじゃないか」 怒った口調ではない。 ただ、少し寂しそうで、少し安心したような声だった。 それが楓の胸をじんわり温かくする。「ごめんね、いろいろあって……」「彼
しばらくの間、ふたりの会話は楓自身の話ばかりだった。 冬真とのこと、亮との決別、そして外科に戻る決意――。 ワインを少しずつ飲みながら笑い合っていると、ふと楓は真琴の顔をじっと見つめた。「……そういえばさ。昨夜、真琴はあのあとどうしたの?」 楓がそう問いかけると、真琴は一瞬だけわざとらしく目をそらし、唇の端を上げてニヤッと笑った。「ナイショ」 その言い方があまりに含みがありすぎて、楓はすぐに察した。「ねぇ、その“ナイショ”って……。あの、凛夜って子。連れて帰ったの?」 探るように視線を細めると、真琴はワイングラスをつまみ、優雅にくるりと回した。「想像にお任せします」 あくまで余裕の表情。 楓はむくれた顔つきで身を乗り出す。「ずるいなー! 自分のことは言わないつもりなのね!!」「ふふっ、ほんとかわいいね、アンタ」 真琴は大笑いしながら肩を揺らしたが、次の瞬間、ふっと真剣な顔に戻った。 表情の切り替えが早いのが、彼女らしい。「ねえ、それで……外科に戻る決心はついたの?」 その問いに、楓も自然と背筋を伸ばした。 彼女の瞳に宿る真剣さに、楓は真正面から向き合う。「うん。もう、決心はついてる。あと2週間は休暇だから、その間にどこの病院にお願いするか考えるつもり」「そっか……」 真琴は満足そうにうなずいたあと、ふと「あっ」と何か思いついた顔をした。「ねぇ、慎は?」「慎って……慎一?」「そう。ほら、慎一のパパって大学病院の教授かなんかじゃなかったっけ?」 真琴が首を傾げながら言うと、楓の脳裏に、ある記憶がゆっくり浮かび上がってきた。後藤慎一(ごとう しんいち) / 32歳 企業法務・医療訴訟を得意とする弁護士。 落ち着いた声。 少し皮肉屋で、でも誰より優しかった横顔。 大学2年の頃、友人に誘われて参加した他大学との合同コンパ。 人混みの中で、妙に落ち着いている男性がいて、それが慎一の最初の印象だった。 恋愛感情はお互いに薄々あったのに、踏み出せなかった。 お互いが冷静すぎて、タイミングを逃した。 楓が亮と付き合い始めたときも、慎一は責めず、ただ距離を置いた。(……連絡すら、ほとんどしなくなったんだよね) でもそれは怒っていたからではなく、彼の優しさゆえだった。 そして――。(慎一の父、
料理が少し減った皿を前に、真琴はワインを揺らしながら、にやにやした視線を楓へ送ってきた。 その表情で、次に何を聞かれるのか楓はもうわかっていた。「で? 冬真くんと、あのあとどこへ行ったのよ?」 ついに核心に触れてきた。 真琴の声音は軽いのに、その目はまるで獲物を逃がさない獣のように鋭い。 楓はグラスを指でなぞりながら、ふと昨夜の感触を思い出していた。 昨夜――胸の奥に熱が灯り、呼吸もままならなくなった夜のこと。 冬真に抱きかかえられるようにしてホストクラブを出た瞬間、 外の冷たい空気に触れる間もなく、二人の唇は再び激しく求め合っていた。 ドアが閉まる音すら、もう耳に入ってこなかった。 冬真の手は楓の腰をしっかりと抱き寄せ、 楓の背中まで熱が流れ込むようだった。 唇が離れたとき、楓は自分がどこに立っているのか、一瞬わからなかった。(……私、どうなっちゃってるの?) 呆然としたまま冬真に支えられ、彼が止めたタクシーへ半ば引き込まれるように乗り込んだ。 ドアが閉まると、世界がふたりだけになった。 けれど――タクシーの中では、奇妙なほど何も話さなかった。 沈黙。 暗闇。 近すぎる距離。 触れれば再び崩れ落ちてしまいそうなほどの熱。 冬真はただ、楓の手を離さなかった。 タクシーが停車したとき、楓ははっと我に返る。「ここは……?」 窓の外には、高層の豪華マンションがそびえていた。 ライトアップされたエントランスが、ホテルのように華やかだ。「俺の家」 冬真はそう言って、ドアを開けた。 その横顔は、甘くも鋭くも見えて、楓の心臓が跳ねた。 エレベーターへと導かれ、乗り込む。 静かにドアが閉まる――その瞬間。 冬真は楓を力強く抱きしめ、唇を重ねてきた。 息を奪われるような、深くて熱いキス。 背中に回された腕の温かさに、楓の心が完全に溶けていく。 部屋のドアが開くと同時に、すべての理性が崩れた。 部屋に入った記憶は曖昧だ。ただひたすら、お互いを求めた。 キスをしながら廊下を歩き、 肌に触れる指先が熱くて、 お互いの服を急くように脱がせ合い―― ベッドに倒れ込んだ。 何度も、何度も。 まるで離れたくないと証明するかのように、激しく愛し合った。 楓は自分がこんなふうに誰かを求
翌日の夜。 マンションで一人、カモミールティーを飲みながらソファに沈んでいた楓のもとに、スマホの着信音が鳴り響いた。 画面を見ると、真琴。 何となく予想はついていたが、胸の奥がぴくりと跳ねる。「……はい、もしもし?」 応答した瞬間、スピーカーを震わせる勢いで声が飛んできた。『ちょっと! 昨夜の話、全部聞かせなさいよ!!』 楓は思わずスマホを耳から離した。「ちょ、ちょっと真琴、声大きいって……!」『誤魔化しても無駄! 今日の夜、軽くご飯行くから。逃げたら許さないからね!』 逃げる余地など最初から与えられていない調子に、楓は苦笑した。「わかったよ……行くから。場所、送って」 通話が終わり、メッセージで届いたレストランの名前を見た。 駅近の、落ち着いた雰囲気のイタリアン。真琴らしい選択だ。 店のドアを開けると、静かなジャズが流れ、穏やかな照明がテーブルを照らしていた。 奥の席で真琴がすでにワインを片手に座っている。「ごめん、おまたせ」 楓が向かいの席に腰を下ろすと、真琴はじぃーっと楓の顔を観察するように見つめた。「なに? どうしたの?」「いや……なんかさ、今日の楓、顔の艶が良すぎない?」 にやりとした表情に、楓は思わずむせそうになった。「ちょっと真琴! 変なこと言わないでよ……。とりあえず、先に何か注文しない?」 楓はメニューを差し出し、話題を変えようとする。 しかし真琴は受け取ったメニューをぱらぱらと開きながら、目だけはしっかり楓をロックオンしていた。「今日はね、ぜーんぶ話してもらうんだから。覚悟しなさいよ?」「……はいはい」 結局、ふたりの好きなものを中心に、パスタとサラダ、前菜を適当に注文し、ようやく本題に入る空気になった。 料理が運ばれてきて少し落ち着いた頃、真琴がジェノベーゼをフォークに巻きつけながら切り込んできた。「――で、昨日は何があったわけ?」 そのまっすぐな視線に、楓は思わず目を逸らした。「どこから話せばいいのかな……」「そりゃ、ホストクラブで冬真くんとキスしてたところからに決まってんでしょ!!」「ちょっ……真琴っ!!」 楓は慌てて身を乗り出し、真琴の口を手で塞ごうとした。「声!! もっと小さい声で話してってば!!」 しかし真琴は周囲をざっと見渡し、肩をすくめた。「誰も
冬真の指先が顎に触れたその瞬間――。 「……ちょっと待てよ」 亮が立ち上がりかけ、その声は低く震えていた。 亜里沙が慌てて引き止める。「やめて! 店の迷惑になるでしょ!」 だが亮の視線は、完全に楓に向いていた。 冬真の腕に抱かれ、 彼の胸元に顔を寄せ、 笑っている楓。 亮の目にはそれが“楓が甘えている”ように見えた。(あいつ……なにやってんだ) 亮は拳を握りしめる。 しかし楓は冬真と目を合わせ、静かに微笑んでいた。「楓さんの好み教えて。どんな男が好き?」冬真に耳元で囁かれ、楓はちょっと照れて言った。「……キスがうまい男……」 冬真の表情がほんの少しだけ熱を帯びる。 そのタイミングで、凛夜と真琴はさらに密着し、わざとらしく笑い合っている。「ねぇ楓、今日来て大正解ね! ほら見て、凛夜くんめっちゃ優しい〜」「真琴さん、それは俺に惚れたってことでいいんですか?」「んふふ……どうかな?」 まるでドラマのように盛り上がる4人の席。 それが亮の席にとっては地獄の光景だった。 楓は亮がこちらを気にしていることには気づいていたが、あちらは新しい彼女を連れているのだから、自分のことに干渉されたくなかった。自分はもう、今の亮を目にした瞬間、すべて吹っ切れた気がした。グラスを持ち上げながら、楓は小さい声で呟いた「メンドクサイ男…」。すると、冬真が楓のグラスを取り上げて、テーブルに置くと、楓の肩を抱き寄せてキスをしてきた。楓は驚いて拒否する間もなく、冬真のされるがままになっていた。隣で真琴と凛夜が気配を消しながらコソコソと囁いているが、楓の耳には何も届かなかった。甘くて気持ちのいいキス……楓は冬真のキスに酔ってしまっていた。唇が離れても、楓はしばらく呆然としていた。冬真が「どうだった?」と耳元で聞いてくる。「うん………」と頷くので精一杯だった。「オレ、これで店上がっちゃうから、このあと、今の続きしない?」と冬真が言う。楓はまだ呆然としていたが、冬真に微笑んで「うん」と答えていた。向かいで見ていた亮も、呆然としている。冬真がスタッフの一人に声を掛けると「行こうか」と楓の腰を支えて立たせてくれる。真琴が「えー!!お持ち帰りー!?」とはしゃいでいる。楓がバッグからクレジットカードを真琴に渡そうとすると、「今度、倍返し







